(創立125周年記念誌より)


 校歌動画  
 現在の三本木小学校の校歌は、本校が創立50周年を迎える大正11年に記念事業の一つに制作が計画され、2年後の大正13年4月につくられ制定されました。
 この校歌にはどんな願いがこめられてつくられたのか、また、校歌の教えはどんな教えなのでしょうか。
 学校では「校歌の教え」を次のように指導しています。
1 作詞者の児玉花外につい
 児玉花外(明治7年〜昭和18年)は京都に生まれ、本名は伝八といい、明治30年代から昭和の前半にかけて日本を代表する詩人として活躍しております。多くの詩集を出版したほか、地方の新聞記者をしたり、英雄の伝記も書いています。

 児玉花外は十和田湖を世に広めた有名な大町桂月と親交のあった方で、桂月の紹介などによって作詞を依頼するご縁につながったと言われています。

 児玉桂月は本校の校歌のほかに、藤坂小学校や法奥小学校の校歌、さらには、「白雲なびく・・・」で知られる明治大学校歌も作詞しています。
2 作曲者の堀内敬三について
 堀内敬三(明治30年〜昭和58年)は東京都に生まれ、昭和期の音楽評論家として活躍しております。

 堀内敬三は日本放送協会(NHK)の洋楽主任を務めたり、ラジオの音楽番組の解説、あるいは、歌曲とオペラの訳詞・著作など、幅広い活動によってわが国の音楽文化の向上に大きな貢献をしています。慶応義塾大学応援歌「若き血に燃ゆるもの・・・」は、堀内敬三の作詞・作曲によるものです。
3 歌詞の内容について
   むつ  ひい  さんぼんぎ    ただ そだ さか
一 陸奥に秀ずる三本木    正しく育ち栄えては

   くに はしら        あお  たか はっこうだ
   国の柱となりぬべし 仰ぐも高き八甲田 

   全体として
   「自立の教え」
   と捉えることができます

 ここ陸奥の地方は自然の恵みが豊かなところで、中でも十和田市は、緑と太陽のあふれる自然の環境に恵まれ、また、偉大な人が世に出た地域です。
 このような恵まれた地域で、心豊かにたくましい人に成長し、あの八甲田山のように大きく気高い理想をもち、やがて将来には、地域や郷土、そして、国のために貢献し、役立つような人になりたいものです。

   ちとせ つと  たいそづか   おやここころ いつ
二 千歳に伝う太素塚     親子心を 一にして

   あれの すえ ひら     おん        わす
   荒野の末を 開かれし 恩をばいかで忘るべき 
   
  全体として
  「感謝の教え」
  と捉えることができます

 学校の近くには、昔から伝えられてきている太素塚があります。ここには、父である新渡戸傳とその子十次郎が祀られており、この親子は心と力を合わせて、不毛の地であった三本木原の荒野を切り開いてくださいました。そのおかげで、私たちは恵まれた十和田市で生活していられるのです。

 私たちは、この父子の開拓のご恩をどうして忘れることができましょうか。隣人とか物に対して感謝の心をもって接することのできる人になりたいものです。

   ひろ  す   とわだこ     むね      おいらせ
三 広くも澄める十和田湖を 胸にうつして奥入瀬の

   なが               まな  みち すす
   流れとともによどみなく 学びの道を進まばや
   
  全体として
  「進取の教え」
  と捉えることができます

 あの広々とし満々と水をたたえている美しい十和田湖は、四季を通じて常に清く澄んでいます。

 私たちは、その濁りのない湖の清らかさに学び、さらに、絶えることなく流れ続ける奥入瀬川の流れに学び、怠ることなく勉学の道を進みたいものです。
4 四番まであった校歌の歌詞
  南部の馬は日本一  人もすぐれて勇ましく

  力養い君のため  御世に誠を盡しなん

 校歌が制定された当時は四番(現在、歌われている二番と三番の間に)までありましたが、いつの日にか(おそらく戦後になって)時代にそぐわない一部の内容から、当時の三番の歌詞は省略されています。

 終わりの文節は別として、前半の文節にある「人もすぐれて勇ましく 力養い君のため」の部分は、「忠の心」と捉えることができ、現在歌われていなくとも捨てがたい内容のように思います。

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