12 信念を貫いた新渡戸稲造

 1933年(昭和8年)8月、世界中から日本に向けられた冷たい非難の目を感じながらも、稲造は第5回太平洋問題調査会の会議に日本側の団長として出席するため、カナダのバンフに向けて出発しました。
 稲造は、「今まさにくずされようとしている太平洋のかけ橋を私は支えていかなければならない」と考えていました。

  稲造たちは、カナダのバンクーバーに着くと、列車を乗り継いでバンフに向かいました。長時間の旅で疲れたこともあって、稲造は列車の中ではげしい腹痛におそわれました。
  バンフに着いた日は、会議の初日でしたので、稲造は腹痛をこらえて会議に出席しました。その席で稲造は次のようなあいさつをしました。

「国際間のバランスがくずれる時は、政治や外国との関係だけでなく、経済や文化、感情にまで目を向けなくてはなりません。この会議のめあては、今高ぶっている国際間の緊張の原因を明らかにし、解決の道をさぐることです。」

 稲造は会議で、日本が世界の国々に理解されるように全力をつくしました。しかし、これが稲造の最後の活躍の場となりました。
  
 その後、休養し、またアメリカ各地を講演する予定でしたが、宿泊していたホテルで急に腹痛をおこし入院しました。
 入院後の病状はおもわしくなく、肺炎もおこして、日に日におとろえていきました。手術をしましたが、これといった効果もなく、1933年(昭和8年)10月15日、万里子夫人に最後をみとられながら、カナダの地で帰らぬ人となりました。

 稲造は、若いころに「われ太平洋の橋とならん」という願いをもってから、生涯を通して世界平和のために働いてきました。
 その願いを最後の最後まで持ち続けて永遠の眠りについたのです。

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