2 アメリカへ

 東京大学へ入学した稲造は、学費を払うために英語学校で英語を教えながら大学での勉強に励みました。
 しかし、これは、健康状態があまりよくない稲造にとってたいへんつらいことでした。
 また、期待して入学した東京大学の講義は期待はずれのもので、世界における日本の遅れを感じるものでした。

 ある時、アメリカに留学していた札幌農学校時代の同級生から「進歩と貧困」という本が送られてきました。この本は、出版されてから8年もたっているのに、日本で最高の大学と言われる東京大学にもまだありませんでした。

 稲造は、自分をみがき、実力を高めるためには、広い世界へ出ていかなければならないと考え、アメリカ留学を決意しました。
 稲造は、まだ見たこともないアメリカへの期待と不安を胸に抱きながら、横浜港を出発しました。
▲アメリカ留学時代の稲造
▲メリー・エルキントン嬢

 1884年(明治17年)9月、稲造はサンフランシスコに着きました。そして、アレゲニイ大学に入学し、ドイツ語や哲学などの講義を受けました。

 2週間ほどして、友人の誘いで、ジョンズ・ホプキンス大学に移ることになりました。ここでは、3年間、農政学・歴史学・英文学・ドイツ語などを学びました。

 ある日、大学からの帰り道、クエーカー(キリスト教の一派)の人たちのお祈りの様子を見て、とても感激しました。このことがきっかけで、稲造はクエーカーの集会に行くようになりました。集まっている人たちと語り合っているうちに、だんだん親しくなり、稲造に好意をよせる人たちが多くなってきました。

 稲造は、日本の事情について何回も講演しました。そして、「太平洋のかけ橋になりたい」という願いがほんの少し実現したのがうれしくて、一生懸命に日本のことを紹介しました。

 また、アメリカの優れた文化や考え方を日本に紹介するために、日本への手紙を書いたり、雑誌にのせてもらうための原稿を書いたりしました。

 1886年(明治19年)、稲造は、日本に興味をもっているというメリー・エルキントンを紹介されました。
 日本について熱心にたずねるメリーに、稲造は日本のことをいろいろと話して聞かせました。
 稲造は、次第にメリーのやさしい人がらや物事を深く考える力について感心しました。
(メリーは、のちに稲造と結婚しました。)

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