5 療養生活と文筆活動

 札幌農学校教授として、また学校以外の部活にも人一倍つくしてきた稲造は、ついに体を悪くしてしまいました。
 前にも病気になったことがありましたが、その時よりも症状が重く、それまでやっていた仕事がまったくできなくなりました。
 医者は
「仕事をやめて、病気の治療に専念しないと命が危ない。休養するように。」
とすすめました。

 そこで、新渡戸夫妻は、休養のために群馬県の伊香保に移りました。そして、温泉に入りながら休養につとめました。そのかいあって、少しずつ体力は回復し、病気もよくなってきました。
 体の調子がよいときには、専門の農政学のことをまとめ、1898年(明治31年)に「農業本論」という本を完成させました。
▲英文でかかれた「武士道」

 やがて、万里子夫人(稲造は、メリーのことをこう呼んだ)は、アメリカのカリフォルニア州南部の海岸沿いの町に行って休養することをすすめました。
 アメリカに行った稲造は、のんびりと生活するうちに、体の調子がよくなるだけではなく、気持ちにもゆとりがでてくるようになりました。

 ここで稲造は、10年前のドイツ留学中にラブレー博士と交わした会話を思い出しました。
「あなたの国の学校では、宗教教育をしていないのですか。」
「していません。」
「宗教教育をしないで、どうやって道徳教育をするのですか。」
 その時、稲造は答えに困りました。

 それからずっと稲造の心の中には、この会話をした時の思いが残っていました。
 また、万里子夫人からも「日本人のものの考え方や習慣は、何にもとづいているのですか。」とよく聞かれましたが、満足に答えることができませんでした。

 稲造は考えました。そして、あることに気づきました。
 稲造は、少年時代に学んだ道徳の教えは、学校で教えられたものではなく、祖父の新渡戸傳(にとべつとう)や母、叔父が教えてくれた「武士の精神」の中にあるということに気づいたのです。

 このようなことから「武士道」という本を書くことにしました。

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