7 さとう生産を高めた台湾時代
日本は、台湾の産業をさかんにするためには、さとう生産の仕方を改良することが重要であると考えていました。 その改良をすすめる指導者として、稲造が推薦されました。しかし、まだ病気が治っていなかった稲造は、その仕事を断りました。 その後、何度も手紙や電報で頼まれるうちに、稲造の気持ちは少しずつ動いていました。 病気が治ったら、札幌農学校へもどるつもりだった稲造は、ついにこの仕事を引き受けることにし、台湾へ行く決心をしました。 1901年(明治34年)、台湾の殖産課長となった稲造は、視察・調査のため、スペイン・エジプトなどに渡り、翌年帰国しました。 稲造は、帰国すると間もなく、さとう生産の仕方を改良し広める仕事にとりかかりました。 外国から改良されたさとうきびの苗を輸入し、大きな試験場やさとう工場などをつくらせて、台湾のさとう生産のもとを築きました。 改良を重ねるうちに、1902年(明治35年)に稲造が台湾糖務局の局長になった時から、台湾のさとう生産は高まっていきました。 そして、1907年(明治40年)、明治政府の計画よりも3年も早く台湾の経済の立て直しをすることができました。 稲造は、台湾の若い人々にも大きな夢をもってほしいと考え、次の時代を引きついでいく人間を育てるための教育をしました。 |