9 日米交換教授第一号としてアメリカへ

▲日米交換教授として渡米のきまった稲造
 1911年(明治44年)、日本とアメリカの大学教授を交換する計画が立てられました。そして、第一号の交換教授として選ばれたのが稲造でした。

 アメリカでは日本に対する誤解が広まっている時でした。これは、日本のことをよく知らないことが原因でした。
 交換教授として、アメリカ各地で講演することは、「太平洋のかけ橋になろう」と思っていた稲造にとっては、アメリカの人々に日本のことを知ってもらうよい機会でした。

 アメリカでは、166回の講演をしました。稲造は、どの会場でも日本のことを紹介しました。アメリカの人々には、「武士道」の出版によって、「新渡戸稲造」の名は知られていたので、会場はどこも満員でした。

 稲造は、日本のことを紹介するとともに、日本が世界の国々と友好関係をもちたいと願っていることも話しました。
 稲造のがんばりによって、アメリカの人々の日本に対する誤解は少しずつ消えていきました。

◆戦争はいつやむか
 アメリカ各地の講演会場で、稲造はいつも同じような質問をされました。
「日本人は平和をのぞむのか。」
「日本人は戦争を好んでいるのではないか。」
という質問でした。

 日本人は戦争好きだという考えは、アメリカだけではなく、世界中に伝わっていました。
 稲造が
「いや、日本人は戦争を好まない。戦争をするのは、やむをえないためである。日本は、決してこちらからは戦争をしかけたことはない。
 日清戦争・日露戦争も、みな相手からいどまれてやったのだ。
 ヨーロッパ諸国はもちろん、アメリカでさえ、100年ごと、50年ごとに戦争をしている。
 日本は、最近10年で2度も戦争に勝利したから、いかにも戦争を好むように見られているが、それは誤解だ。過去2000年の歴史を振り返ってみても、江戸時代のように230年も平和が続いた国は日本だけだろう。」
と話すと、手帳などにメモする人もいました。

「しかし、情けないことに日本の歴史は西洋にはよく伝わっていないし、西洋の人々は日本のことを研究もしていない。西洋人は、日本の歴史のことを知らないで、新聞だけを見て日本のことを知るのであれば、日本人は戦争好きだと誤解されるのも無理はない。そこで、世界の誤解を解くために、我々が集まって議論をし、戦争をやめる方法について、一歩でも二歩でも研究を進めることができるならば、これほどすばらしいことはないと考える。

 さて、戦争はいつやむのだろうか。今日の世界各国がお互いに武装し、いつでも戦争をしようとしている。我々が世界の問題を解決しようとする時には、それぞれの国が正確な知識と冷静な感情をもって十分に話し合えば、戦争がやむようになるのではないかと考える。」
と講演しました。

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