10 国際連盟での活躍

 第一次世界大戦後、世界の国々は二度とこのような戦争がおきないように、国と国との対立を話し合いで解決しようと願い、1920年(大正9年)に「国際連盟」という平和のための組織をつくりました。

 国際的な地位を高めてきた日本は、国際連盟の常任理事国となり、1名の事務局次長を出すことになりました。日本の代表の人たちは、パリの日本大使館で、事務局次長を誰にするかたいへん困ってしまいました。

 そこへ、ヨーロッパの国々の様子を視察していた政治家後藤新平たちといっしょに、稲造が大使館に来ました。
 代表の一人、牧野伸顕が言いました。
「ここに立派な候補者がいる!」
ほかの代表も口々に言いました。
「そうだ! 新渡戸さんがいい。」
みんなが賛成し、さっそく事務局次長になってくれるよう頼みました。牧野伸顕は、前に稲造を第一高等学校校長に推薦した人物で、稲造のひとがらや学問の広さをよく知っていました。

 多くの人にすすめられて、稲造は事務局次長の仕事を引き受けることにしました。
▲国連事務局長時代(職員とともに)

 稲造は事務局次長として、国際連盟の精神をよく理解し、その活動をさかんにしていきました。
 事務総長のドラモンド卿は、稲造を信頼し、世界各国での講演やいろいろな仕事をまかせました。
 そして、稲造はいつのまにか「国際連盟事務局長の良心」といわれるほど、立派な精神を吹き込んでいったのです。

 また、稲造は、日本がどれだけ文明国であるかを外国の人々にわかってもらうために、スイスのジュネーブ郊外にある自分の家に陶器や絵画などの美術工芸品を展示し、花をいけたりお茶をたてたりして、訪れてくる人々をもてなしながら、日本の伝統的な文化を紹介しました。
▲国連事務局を訪れた秩父宮殿下と稲造たち
  
 また、稲造は、国際知的協力委員会(国際連盟専門機関の一つ。この委員会には、キュリー夫人やアインシュタインなども参加していた。)のメンバーとして、国際文化事業の中心となり、活躍しました。

 これは、現在のユネスコのもとになりました。稲造は多くの外国人に信頼され、「ジュネーブの星」と言われるまでになりました。

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