11 「太平洋のかけ橋」への努力

 稲造が国際連盟事務局次長の任務を終えて帰国すると、多くの仕事が待ちかまえていました。
 稲造は、貴族院議員として働くとともに、1929年(昭和4年)には太平洋問題調査会の日本側の理事長となりました。
 このころの日本は、軍部が力を強めていました。
 太平洋問題調査会とは: 1922年(大正11年)に設立された機関。そのねらいは、太平洋地域の国際的、人種的な問題を調査し、話し合って解決しようとすることでした。アメリカ・イギリス・フランス・日本・中国など13カ国が参加しました。

▲満州国と中国北部への進出

 1929年(昭和4年)、中国内戦の時、中国にいる日本人を保護するためという理由で、日本は山東(シャントン)省に軍隊を送りました。
 また、1931年(昭和6年)、南満州鉄道を守る日本軍が鉄道爆破事件を起こし、これをきっかけにして中国軍と戦いを始め、ついに満州(現在の中国東北部)を占領する満州事変を起こしました。

 そして、軍部は中国大陸へへ進出し、さらに戦いを広めていきました。このため、中国の国内には日本に対して憎しみの気持ちが広まっていきました。

 この年の10月、上海(シャンハイ)で第4回太平洋問題調査会の会議が開かれることになっていたので、稲造は重苦しい気持ちでいました。さらにこの時、稲造は体調がよくないことが続いたので、周囲からは、会議に出席できないのではないかと心配されていました。
 しかし、稲造は、2本の松葉杖にすがり、看護婦の助けをかりて会議に出席しました。

 1932年(昭和7年)2月、稲造が愛媛県松山市で行った講演のとき、軍部を批判したとして大問題になりました。周囲の人々からも、日本国民として許されない発言だと言われました。軍部の力が強まることを心配するコメントが書かれたパンフレットはすべて取り上げられ、本を書く活動も禁じられました。

 稲造の発言や行動は厳しく監視され、一部の団体からは命を狙われるほどでした。稲造は、日本の将来が暗く、自分一人の力ではどうにもならないところまできていることを感じていました。
 また、日本が中国大陸へ進出したことがきっかけとなって、日本とアメリカの関係はしだいに悪くなっていきました。稲造がそれまで築いてきた「太平洋のかけ橋」がこわされようとしていました。
 こうした時、病気で疲れきった体にむつ打って、アメリカに渡る決心をしました。

 1932年(昭和7年)4月、稲造は万里子夫人とともに、横浜を出港しました。
 アメリカに着いた稲造は、首都ワシントンで大統領や国務長官と会い、両国の協力や平和を守るための和解について話し合いました。
 また、ラジオ放送を通して、日本の立場を述べたりしました。

 こうして、日本とアメリカのめに、およそ1年にわたってアメリカ国内をまわり、各地で100回を越える講演をしました。
 しかし、日本に対する誤解を解くことは難しく、一部のアメリカ人からは、「日本の軍部に頼まれているのではないか」などと言われました。稲造は、こうしたことに耐えて、日本のために懸命の努力をしました。

 その後、日本は満州国をつくり、中国から独立させました。そして、満州国に対する国際連盟の対応が不満だからという理由で、国際連盟を脱退し、さらに中国北部へ進出していきました。
 このような日本の動きに対して、世界各国から非難されるようになりました。

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